歴史・由来

永興寺 縁起

創建の由縁 後嵯峨天皇の皇子 仏国国師を開山とする由緒ある寺

永興寺(ようこうじ)は鎌倉末期の延慶二(1309)年、禅の高僧仏国国師を開山に、大内弘幸によって創建されました。弘幸の子・弘世は、父の菩提を弔うため七堂伽藍を整備し、寺領も大きく広げていきました。同時に幕府より官寺として認められるなど、格式の高い寺として知られるようになります。弘世以降二百年つづいた大内氏の繁栄は、陶晴賢の謀叛によって終わりを告げますが、その後、陶晴賢は永興寺を陣屋として厳島に出陣して、毛利元就軍に敗れて絶滅。毛利元就も永興寺に宿陣して周防を平定。元就と輝元によって永興寺は手厚く保護されたのです。

仏国国師坐像

永興寺の開山、仏国国師(高峰顕日・1241〜1316)の肖像彫刻。
像高 106.1cm
木造(寄木造)、玉眼、彩色
南北朝時代(14世紀)

達磨大師坐像

禅宗の開祖である達磨大師の像。
像高 52.4cm
木造(寄木造)、玉眼、彩色
室町時代(15〜16世紀)

再興までの歩み 時代に翻弄されながら厳然と守られてきた唯一無二の存在

永興寺(ようこうじ)の運命が変わったのは関ヶ原合戦でした。毛利軍が敗れた後、慶長五(1600)年に移ってきた吉川広家は、横山一帯に上屋敷を改営するため、永興寺の居館の解体や境内用地を転用。一時は廃寺同様となってしまいます。

しかし、慶長の末、周伯玄雍(しゅうはくげんよう)により消滅した永興寺の再興を吉川広家に懇願。元和二(1616)年再興され、江戸時代以後多くの名僧を招き文化発展に寄与することで宗風を守り続けました。
明治に入り再び廃仏毀釈の影響で伽藍を縮小されましたが、現在では枯山水庭園が岩国市指定文化財となり、新薬師堂も完成するなど、力強い歩みがすすめられています。

  • 境内のみどころ 永興寺 十景